大同2年(807年)に開坑し、信長・秀吉・徳川幕府の時代を経て明治元年には政府直轄となり、その後は皇室財産にまでなった大鉱山・生野銀山。その栄光の歴史を、パネル展示などにより紹介しています。
また徳川時代の雁木(がんぎ)梯子、竹樋(坑内の水を汲み上げたポンプ)、精錬に使ったふいごをはじめ徳川時代の銀山の様子を詳細に描いた絵巻物、坑内模型などの資料も豊富に展示。当時の雰囲気が、伝わってきます。
鉱山立体模型
左の図は、巨大模型の一部です。縮尺は15分の1、高さは568cm、幅は1440cm。
蟻の巣状に採掘されている地中に黒い筋が描かれているのが、銀鉱脈。
「但州生野銀山々内緒山敷中品々道具類絵図」(たんしゅういくのぎんざんさんないしょざんしきちゅうしなじなどうぐるいえず)などをもとに道具を、また徳川時代の銀山絵巻などを参考に150体の人形で再現されています。
地下の工場と分業体制
真っ暗な地下で人手が頼りの作業です。照明はサザエの殻に油を入れ、一人一人の灯火としました。鉱石を取り出す仕事は、順にいうと探鉱、測量し、稼行を予測しその上で採鉱、運搬となるですが、この他大切な作業に鉱石の検査、労務監理、排水、換気作業、坑道維持の為の支柱造りなどあります。
役職名でいえば間切改め、掘り大工、水替え、風廻し、山留大工、改め役と色々ある通り、作業は多くの人々の分業で成り立っていたのです。
書・絵画
「銀山の生野古町牡丹咲き」西野象山
西野象山氏揮毫の書
俳人で鉱山学者であった山口青邨が昭和31年5月に生野銀山を訪れた際に詠んだ「銀山の生野古町牡丹咲き」という句を西野象山氏が揮毫され、シルバー生野に贈呈されたものです。
<略歴>
昭和10年 養父市八鹿町生まれ
本名 義正(よしまさ)
八鹿町教育委員会、岡山県美作高等学校(教諭)、美作女子大学(講師)、県立生野高等学校(教諭)、佛教大学国文学科(講師)、中国東北師範大学 (中国語言文学系教授) 河南大学(兼任教授)を歴務。
現在、公益社団法人創玄書道会理事・審査員、近代詩文書作家協会参与、日展会友、毎日展審査員会員、NHK文化センター講師、全日本書芸学院会長 他
「老坑夫」 青山熊治
青山熊治(1886~1932)
朝来郡生野町に生まれる。17歳の時、洋画家・高木背水の画生になり擦筆画を学び、肖像画制作の助手を務めた。
明治37年東京美術学校西洋画科に入学、岡田三郎助、黒田清輝らに学ぶ。在学中、東京府主催勧業博覧会で「老坑夫」が二等賞を受賞。その後も白馬会展、文展等でたびたび入選した。
大正3年から11年まで、欧州各地を放浪。ルノアール、セザンヌらの作品に強い影響を受け、多くの模写を残した。
帰国後、大正14年の第7回帝展に500号の大作「高原」発表。特選、帝国美術院賞を受けた。その後も次々と大作を発表、帝展審査員もつとめた。堅実な写生をもとに数々の装飾的大画面作品をてがけた。
【その他の作品集】
・横たわる裸婦(「朝」下絵)・横たわる男(「朝」下絵)
・フランス田園風景・化粧・I氏の像 等々
見石飾幕
浦島(一枚鱗)
作:初代 常蔵
製:江戸後期~明治初期(推定)
寸:84.5×554.0
所有:生野・山神宮/小野(生野銀山蔵=生野町指定文化財)
乙姫は竜宮城に住む海神の娘で末姫を指し、海神とは龍神を指す。
又乙姫には、年若く美しい女性との意味が込められている。
本作品は、「大亀山」の飾幕で、龍に乗った乙姫と、亀に乗った浦島、背景には竜宮城が描かれている。
御見石即ち山車の上には、銀石を背中に乗せた亀が飾られる。
大亀が背中に銀石を乗せて這い出した所を掘り進むと、良質の鉱石が見つかったと言う伝承から、亀を題材にした装飾が山車に施され、「浦島」の物語が飾幕に用いられたと思われる。
又、本幕は一枚鱗で製作され、絹常の創業当初からの高い技術水準を窺い知る事が出来る。
吹屋とは、今でいう銀を精錬することにあたります。
徳川時代、幕府に献上する「上納銀」を作るために、丹念に、辛抱強く精錬を繰り返していた吹大工たち。昔は精錬のことを「吹屋」といい、精錬作業に従事する人のことを「吹大工」と呼んでいました。
吹屋の作業は、(1)素吹(2)真吹(3)南蛮絞(4)荒灰吹(5)上銀吹の5つの工程に分かれています。ここでは、11体の電動人形が各工程ごとの作業の模様を忠実に再現。上納銀ができるまでの工程が一目でわかります。