

山田顕義伯爵 終焉之地記念碑は、JR生野駅西口広場に移設し、
平成23年4月17日、除幕式が行われました。


明治新政府の司法大臣他を歴任し、又日本大学を創立した山田顕義伯爵は、明治25年11月、生野町を訪れ「生野の変」で自刃した一門の河上弥市の菩提を弔い、その帰途生野鉱山を視察中に倒れ死去した。享年49歳だった。
日本大学では、創立百周年を記念して平成元年10月、終焉之地である当地に、同氏の遺徳を顕彰するべく、記念碑を建立された。
山田顕義 略伝
弘化元年(1844)10月9日、長門国松本村(山口県萩市)に生誕、通称は市之允、号、空齋、藩校明倫館に入り、また、松下村塾で吉田松陰に師事、明治維新で活躍。
兵部大丞、岩倉使節団理事官として米欧を回覧、司法大輔、陸軍中将、参議、工部・内務・司法の各卿、司法大臣を歴任、明治22年(1889)10月4日、日本法律学校(日本大学)を創立。
同明治25年11月11日、兵庫県生野鉱山で死去、49歳、正二位、勲1等旭日桐花大綬章、伯爵。
山田顕義 小引
わが国近代化の定礎者、山田顕義は明治25年(1893)11月11日49歳の壮齢をもってこの地に急逝した。
先生は、長藩の志士として世に立ち、武人としては日本の統合に尽瘁、この間、米欧を回覧して国際的視野を広げていた。のち文治を事とするに至っては、工部・内務・司法の卿および司法大臣に歴任、特に近代国民国家の基礎法制を確立した。また、教育による自立と進歩を標榜して、日本大学の前身、日本法律学校を創立し、國學院を開き、法政・中央・独協等の私学を助成した。
日本大学は、本日、創立百周年を迎えるに当たり、先生終焉の地にこの碑を建て、もって、学祖の遺徳が長く後世に顕彰されんことを期する。
平成元年10月4日
日本大学 第7代総長
高梨公之誌